Naoki の居酒屋日記

フィリピン・セブ島在住20年の Naoki が綴る居酒屋日記
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プロフィール
■ニックネーム:Naoki
■出身地:長野県伊那
■年齢:貴方のご想像にお任せします。
■住んでるところ:フィリピン・セブ島
■好きなたべもの:もちろん....
■仕事:居酒屋「神楽」セブ島・マンダウエ市 A.S.フォーツナ通り
■得意技:頼まれ事の解決 出来る事なら何でもご相談にのりますが有料・無料と時と場合によります。
■趣味:ナイト・パトロール、ビリヤード、ダーツ、野球、ゴルフなどなど皆様の趣味にあわせる事が出来ます。


                                 

N A O K I 物 語

(第1巻)




青年時代からの回顧録

遠く日本を離れたフィリピン共和国のセブ島に安住の地を見つけ、
      日本食レストラン居酒屋「神楽」のマネージャーに落ち着いた男の
波乱万丈?の自叙伝・・・・・

                 
                       

好評、ブログ公開中“NAOKIの居酒屋日記”
http://naoki.kagura-cebu.com/
                http://kagura-cebu.jugem.jp/





































[目  次]

NAOKI物語 (1)  売れないミュージシャン・五反田時代

NAOKI物語 (2)  最初の結婚

NAOKI物語 (3)  伊那での暮らし

NAOKI物語 (4)  再び東京へ

NAOKI物語 (5)  フィリピンとの出会い 

NAOKI物語 (6)  フィリピンで仕事を始める

NAOKI物語 (7)  水産会社時代・その1

NAOKI物語 (8)  水産会社時代・その2

NAOKI物語 (9)  水産会社時代・その3

NAOKI物語(10)  水産会社時代・その4



NAOKI物語 (1) 売れないミュージシャン・五反田時代


今日は暇ですから、私の昔話を書きます。



毎週金曜日と土曜日は、私がマネージャーをしている居酒屋「神楽」に、バンドが入って

いますが、私も若い頃はバンドをやっていました。

グループ名は、「赤と黒」。(誰も知らない?)

メンバーは3人。

バックに、ドラム、ベース及びキーボードを付けていました。

当時は、渋谷の「エビキラス」や、上馬のライブハウスによく出演していました。

その頃、私の所属していたプロダクションは東京の原宿にあり、

元ガロのトミーや中村晃子なども一緒でした。

私が初ステージに立ったのが、

目黒にある大学か大学院かは忘れましたが、そこの学園祭でした。

4つのバンドが出演しており、我々のバンドは2番目の出演で、

当時流行っていたロンブー「ロンドンブーツ」を履いて出た。

(このブーツ、ヒールが12〜13センチあった)

足が長く見え、カッコは良かった。

オリジナルソングを四曲歌いました。(まあーまあー、ウケは良かった)

そして取りは、因幡晃。

控え室は一緒だったが、話はしなかった。

「わかって下さい」が大ヒットし、次の「別離」という歌を出した頃だった。

それから、渋谷の「エビキラス」では、大橋純子が我々の前座だった。

ポスターを見たら、

「可愛い子ジヤン」

と思っていたが、実物は、

「あのオバサン誰?」

と聞くほど、“オバサン”ぽかった。

ところが歌を歌いだしたら、“上手い〜〜い”、

次の出番を待つ我々が、聞き惚れていた。

その後、

「彼女は、大スター」

我々は、カニでした。(横歩き)

上馬のライブハウスでは榊原郁恵が来ていて、ステージが終わった後挨拶に来た。

「ホリプロからデビューした榊原郁恵です。宜しくお願いします」

と可愛かった。

お金があるプロダクションはスゴイ、等身大の写真がレコードショップに並びアッという間に、

「アイドル歌手」

我々は、カニが続いた。



月に2〜3回のコンサートでは食べて行けない。

そこで、弾き語りを始めた。

場所は、五反田の有楽街、ピンクサロンが並ぶ飲み屋街。

当時はまだカラオケが無く、クラブではギターやピアノの生演奏で歌を歌わせていた。

最初の頃だった、

お客様が、

「羽田発7時50分」

と言うから驚いた。

時計を見たら9時だった。

「あの〜、もう9時ですが?」

と言うと、

「歌だよ」(エエ〜、そんな歌あるの?)

本を見たら“あった〜〜”

「羽田発7時50分」

フランク長井の歌だった。(マギラワシイ歌作るなよ)

私は何時も、背広にネクタイ姿。

歌ったお客さんが、ポケットにチップを入れてくれる。

8時から30分毎に2件掛け持ちし、12時からもう1軒の、全部で3軒掛け持ちしていた。

移動の時にポケットからお金を出してみると、1万円札もありました。

「ヤッター」

数ヶ月経ったら、バンドより楽しくなり、

バンド仲間も働いていたし、

コンサートも2ヶ月に1回と少なくなってきた。

その後、バンドは解散となりました。

私は、新宿の安アパートから友達と2人で、中目黒のマンションに移りました。

(ここが人生の変わり目でした)

五反田にはヤクザさんも多く、ヒマな時には、

「ま〜飲メ」

と、席に呼ばれました。

一緒に飲んでいたら、

「先生よ〜、(弾き語りは先生と呼ばれていた)俺でもギター弾けるかな?」

と言うので、

「もちろんですよ、私が弾けるくらいですから。お客様なら、私より上手く弾けますよ」

と、ヨイショしたつもりだった。

そのお客さんが、

「これでもか?」

と手を出した。(ゆゆゆ・・指が無い)

薬指と小指が無かった、(3本では弦が押さえられない)

「あああぁ・・・・」

と、声が出なかったら、

そのお客さんが、笑ってくれたから安心しましたが、

「これでも弾けるのか〜〜」

なんて、怒られたら大変でした。

当時、横綱北の湖やヤクルトの若松選手なんかも来た事がありました。(横綱はデカイ)

そして、約2年後にチップや給料を貯め、若者の街六本木へ店を出したのです。

(当時、私は22歳でした)




NAOKI物語 (2) 最初の結婚


バンド当時に付き合っていた彼女は、新人でデビユーした「ピーマン」(知らないだろうな?)

と言う3人グループの中の1人。(キャンデーズをフォローしたグループ)

レコードも数枚出したが、売れず解散した。

その中の1人は、その後「サーカス」でデビュー、“これは売れた”。

私の彼女はソロシンガーとなったが、やはり売れなかった。

そして、NHKの「みんなの歌」に出演したのが最後の仕事だった。

その彼女が住んでいたのは参宮橋のマンション、彼女の女性マネージャーと一緒だった。

マネージャーが留守になると彼女から電話があり、私が潜り込んでいました。

ある日、そのマネージャーが急に返って来てバレテしまったが、

分かって頂、それからは、彼女と一緒に住む様になりました。

その彼女とは数年続き、お互いの家にも行き両親とも会い、家にも泊まり、

いずれ結婚をする予定でした。



六本木に店を借りた。

六本木といっても住所だけで、場所は麻布方面から六本木の交差点を過ぎ、

フランスベッドのビルを左に見て、真っ直ぐ溜池方面に行き、

ドラ焼きで有名な文明堂の隣で、裏にはIBMがあった。(逆か?IBMの裏だ)

六本木駅から歩いて15分はかかる。(遠いが安かった)

2階建てビルの2階で、夜になればゴーストタウンとなり、その店しか開いていない。

車は走っていたが、誰も歩いていない静かなところでした。

店長には、五反田のピンクサロンに勤めていたブ〜ちゃんを引き抜いた。

(何故なら彼は、ベースギターが弾けたのです)

お客様が入ると、ギターとベースそしてリズムボックス(ドラムのリズムが出る箱)を使い、

2人で演奏し、歌っていました。

店は朝の4時まで、だから帰りには酔っ払ってベロベロになっていました。

(今と変わらないか?)

特に土曜日は仲間が集まり、4時過ぎには店を閉めて皆を連れ飲みに行っていました。

六本木という街は恐ろしい、店が閉まらない。(朝までやっています)

ある店なんか、朝の10時とかお昼まで開けていました。(お客が居るからおかしい?)

時々、同業者の友人と飲む時もあり、

「次へ行こう」

と店を出ると、防衛庁へ出勤する方々と一緒になり、カッコ悪い思いもしました。

「おい、みんな働きに行っているよ。そろそろ帰って寝ようよ」

皆様とは逆の、生活をしていたのです。

当時、仲間を集め早起き野球チーム(寝ていないから早起きじゃないな、寝る前野球かな?)

「キャンデーズ」を作った。

オレンジのユニホームで、カッコ良かった。

グランドは神宮球場の隣、時々ヤクルトの選手も練習していた。(この時も弱いチームでした)

一度、多摩川にある巨人の2軍練習場でやった事もあった。


1年ぐらいした頃、彼女がお母さんと店に来た。

「どうしたの」

「何時、結婚するの」

「何言っているの?そんなにあせらなくても、結婚するって言っているだろう」

「私、今直ぐ結婚したい」

お母さんは、何も言わなかった。

「分かった、この店が軌道に乗ったら結婚しよう」

と言うと、

「何時なの?」

「分からない。今年中か来年か?」

そこで、お母さんが言った、

「結婚して、この店を一緒にやって行けば、良いのではありませんか」

(朝から晩まで一緒に居るの?それは勘弁してよ〜)

「はい、考えて見ます」

と言うと、彼女は怒って出て行ってしまった。

それからは、連絡が取れなかった。

数ヶ月後に電話があり、

「私、お見合いをしました。その人はまじめな人だから、結婚しようと思います」

「勝手にすれば」

と電話を切った。

本当は、彼女が私を待っていてくれると思っていたから、本心はショックでした。

(もっと彼女の気持ちを、分かって上げれば良かった)

と反省しました。(若かったからね)



翌年、彼女が10月に結婚すると聞いたので、バカな私は、

「ヨ〜シ、9月に結婚してやろうと」

と思い、友達の紹介で知り合った、銀行に勤める女性と結婚の約束をした。

池袋から東部東上線に乗り、彼女の親の所へ挨拶に行った。

家族は、母と妹の3人暮らしだった。

お母さんはマッサージ師、お父さんとは彼女が小学校の時に別れたそうだ。

母1人で育てて来たのです。

このお母さんが気さくな方で、挨拶に行った日に、

「今日は、泊まって行きなさい」

と言われ、驚きました。

そして、彼女のお母さんは結婚を許してくれた。

(9月に結婚ですから、急がなくてはならなかった)

私は彼女を連れて、長野の両親の所へ行った。

母が、

「また、違う女を連れて来たのか?」

と、内緒で聞いた。(何人か連れて行った事がありました)

「今度は、本当に結婚するから」

「前の彼女も、“結婚する”と連れて来たのに。またか?」

(それを言われたら、確かにそうでした)

私の親父は国家公務員、時間通り出勤し時間通りに帰ってくる。(私とは大違い)

私には優しく、それで私は今まで好き勝手な事をして来たが、何も注意された事はなかった。

(末っ子だからかな?)

何時も酒を飲み、冗談を言う父親でした。

しかし、その時は違った。

真剣な顔で、

「今の仕事を辞め、田舎へ帰って来て、普通の会社に勤めたら許す」

と、怒った口調で言った。

「何を言ってるの。お店をやっているんだよ、閉める訳にはいかないよ」

「いいか、彼女には親も親戚もいる。結婚相手がそんな商売をしていたら親戚にも顔が

立たずに、彼女が恥ずかしいだろう」

そして、

「家の親戚にも、お前が水商売をしているのは内緒なのだから」

と言われた。(当時田舎では、水商売は悪い事だったのです)

悩んだ結果、

親の立場を考え、

数日後、

「田舎へ戻り、就職します」

と答え、NAOKIは、田舎へ帰ったのです。

(当時 24歳でした)

NAOKI物語 (3) 新婚生活


田舎へ帰った私は、友達にお願いして、彼が勤める会社に入りました。

会社と言っても、プリント基板を作る工場でした。

(本当は、結婚後直ぐに東京へ戻る予定だった)


結婚式は、女神湖にあるホテル。(白樺湖の上)

そこにチャペルがあり、牧師さんがいて、キリスト教の結婚式でした。

(キリスト教じゃ無いのにイイのかな?)

彼女のお母さんと妹、親戚も来てくれた。(お母さんの弟との2家族)

そして、私の両親、姉夫婦と兄、それと親戚関係。(身内だけの結婚式でした)


それから、新婚旅行は沖縄。

妻が、

「北海道へ行きたい」

と言ったが、

寒いより暑い方が好きな私が、勝手に決めました。(これが最悪でした)

羽田から沖縄へ着いた。

ビーチのあるホテルへ泊まり、沖縄料理が食べきれないほど出てきて美味しかった。

翌日は、与論島へ行くスケジュールだった。

台風が接近していて、船は時間を遅らせ出発した。(これが最悪)

ビルの4〜5階から「ド〜ン」と落ちたかと思ったら、また「ス〜〜」と上がって行った。

これの繰り返し。

船には強い私も、気持ちが悪くなった。

「ねえ、気持ち悪いよ」

と、妻が言ったが黙っていた。

「ねえ〜気持ちが悪いから、何か話してよ?」

と言われ、

「バカヤロ〜、こっちも気持ちが悪いんだ。話したら吐きそうだから黙っているんだ〜」

と言って、トイレに行ったら満員。

みんな、青い顔をして順番を待っていた。

私は、トイレの臭いでまた気持ちが悪くなり、妻の所へ戻った。

「ねえ〜話してよ」

彼女は、

「話してないと、気持悪くなる」

と言っていた。(合わないな)

そして、やっとの事で与論島へ着いた。

この時は

「助かった〜」

と思いました。

しかし、台風は接近していた。

ホテルに着いても、外へ出る事が出来ない。

部屋の窓から海を見たら、岩にぶつかった波が10メートル以上あがっていた。

駐車場を見ると、車が揺れていた。

窓を少し開けたら顔が吸い込まれて、

「ヤバイ」

と閉めた。

妻が、

「何しに来たのよ。だから、北海道へ行こうって言ったでしょう」

頭に来たので、

「バカヤロ〜、こんなスゴイ台風はメッタに見られないぞ」

と、負け惜しみを言うしか無かった。

与論島は2泊の予定だったが、青い海も見られないまま帰る日になった。

ところが、

「飛行機は飛ばない」

と、連絡があった。

「どうする」

と聞かれたが、

「どうする。と言っても、飛行機が飛ばないのだから仕方無いだろう」

「船で行こうよ」

「バカヤロ〜、あんなに気持ち悪い思いはもうしたくない」

「もう、台風は行っちゃったから揺れないよ」(確かに)

しかし、もう1日与論島へ泊まる事にした。

同じホテルでは楽しく無いので、他のホテルへ移った。

そして帰る日の朝、

「晴れた〜」

と思ったが、10時の飛行機だから海になんか行けない。

(最悪、何の為に海水パンツ持って来たの?)

那覇に戻って買い物をし、朝の便で羽田へ戻り、最悪の新婚旅行が終わりました。

(北海道が、耳に残って消えない旅行でした)



住まいは、実家の近くの団地でした。

妻は、私が居ない昼間は実家へ行っていました。

それから数ヶ月したら、

「妊娠したみたい」

「エエ〜、ホントか〜」

と喜んだ。(しかし早いな〜。沖縄の台風のせいか?)

これで、東京へ帰る予定が変わりました。



工場では、みんな優しかった。

私の友達とは、お昼に会うだけ。

“弁当は妻の手作り”と言っても料理は下手なので、実家へ行き母に教えてもらっていたが、

実家から貰って来たおかずが多かった。

会社でもバンドを作った。(結構好きな仲間がいた)

会社の人の結婚式に出たり、オリジナルの曲を作りバンド大会にも出た。

そして、野球もやった。

夜は、友達の家に行き飲んだりして、自分の楽しい事しかやっていなかった。

だから田舎に友人の居ない妻は、寂しい思いをしたと思う。(今思えば、かわいそう)



妻が破水し、

母が、

「子供が生まれそうだ」

と言うので、朝、伊那の中央病院へ行った。

数分して看護婦さんが、

「まだまだ、時間が掛かりそうです。もしかしたら、明日になるかもしれません」

と言うので、仕事に行った。

すると、お昼前に母から会社に電話が入り、

「男の子が生まれました」

と言われたから、病院に対し頭に来た。

何故ならば、ドラマにもあるが、病院の待合室で待っていて、

「オギャ〜」

と聞こえ、

「ヤッタ〜」

と、喜ぶ事を想像していたからだ。

しかし、会社中を走り回り、

「生まれた〜」

「男だ〜〜」

と喜んだ。

そして、友達の所まで行って、

「男だ〜〜」

と、またまた喜んだのです。(バカですね)

病院へ行き、ガラス越しに初めて自分の子供と出会った時は感動した。

息子は黄疸のため、妻が退院してもまだ病院にいて、遅れての退院だった。


それからお宮参りも終わり、数ヶ月経った頃だった。

私は父の所へ行き、

「彼女のお母さんが一人で生活している。彼女も心配しているので東京に戻り、一緒に暮らし

てあげたい」

と、嘘を付いたのです。

(お母さんは、一人暮らしなので嘘では無かったが、私も妻も行きたかったのは確かだった)

一番辛かったのは会社の仲間、バンドの仲間、そして友達と離れる事でした。

それから、2年間楽しんだ故郷を後にして、また東京へ出かけました。

(NAOKI 26歳でした)




NAOKI物語 (4) 再び東京へ


両親に半分嘘を言い、長野県から東京に戻った私は、目黒区の碑文谷に家を借り、

妻のお母さんも一緒に住んだ。

駅は、東横線の学芸大学。

家は、線路沿いを都立大学の方へ行くと、碑文谷公園(池がありボートも乗れ、

動物もいたので、子供を連れて遊ぶには良い所だった)を過ぎた環状7号線の近くでした。

そして、買い物には近くにダイエーがあり、住むには最高の所でした。



「ヨ〜シ、次は仕事だ〜」

友人の紹介で、代々木にある弾き語りのプロダクションへ行った。

そして話を聞いたら、

「近いうちオーデションがありますから、連絡します」

と言われた。

2日後電話が入り、

「銀座8丁目、丸源ビル21のクラブ○○○へ6時に行って下さい」

と言われ、ギターを持って行った。

中に入ると、オーデションを受ける弾き語りが5人もいた。(これは無理か?)

そして、彼たちの演奏が始まった。(みんな上手だった)

最後に私の番が来た。

何を歌ったかは覚えていないが、終わるとクラブのママさんに、

「追って連絡します」

と言われ全員帰った。

「他の人が上手過ぎたから、受からないかな〜?」

と思った。

翌日、プロモーションから電話が入り、

「もう一度あの店に行ってくれ」

と言われ、マネージャーと一緒に行った。

するとママさんに、

「貴方に決めました」

と言われた。

「エエ〜、私が一番下手だったのに?」

と、思ったが嬉しかった。

(これで仕事にあり付けた〜。女房と子供とお母さんを、食べさせて行けそうだ)

夜の8時から11時半まで、30分間弾いたり歌ったりして、

空いた時間はお客様の席に呼ばれ、お話ししたりしていた。

仕事は12時に終わり、最終電車で帰っていました。

(遅くなると、駅に向かうホステスさん達と一緒に走った)

時々お客様に誘われて、このクラブのオーナーが経営している寿司屋へ、ママと行った。

(ママはオーナーの小指)

何を食べても美味しい。

「これが寿司なんだ?」

「今まで食べていた、回る寿司は何だったのだ?」

と思うほど美味しかった。(しかし、銀座の寿司は美味しいが、目の玉が飛び出るほど高い)



それから2年後に、娘が生まれた。

その日、ベロベロに酔っ払って夜中の3時頃家に帰ったら、(今と変わらない)

「お腹が痛い」

と言うので、

「生まれそうか?」

「うん」(大変だ〜〜)

外へ出てタクシーを待った。(環状7号線まで家から1分)

いつもは沢山走っているが、3時過ぎだと殆ど居ない。

仕方なく、広い環状7号線を渡り反対車線まで行き、やっと捕まえた。

そして妻を乗せ、お母さんから入院用のバッグを持たされ、青山の日赤病院へ行った。

病院へ入ると看護婦さんが、

「貴方は、ここで待っていて下さい」

と言われ、長男の時とは違う「映画やドラマと一緒だ」と思った。

20分ぐらいしたら、看護婦さんが走って来た。

「何かあったのですか」

と言うと、

「生まれました。女の子です」

「ヤッタ〜」

と看護婦さんと喜んだ。(他には誰もいなかった)

5分もしないうちに、子供を抱いて見せに来た。(大丈夫かヨ〜?)

「顔は可愛い猿だった」

そして、直ぐに部屋に戻って行った。

どうして良いか分からない私は、椅子に座って半分寝ていたら、看護婦さんが、

「お帰りになってもイイですよ」

と言うから家に帰って、お母さんに報告して、3歳になった息子にも、

「妹が出来たぞ」

と言うと、喜んでいた。

その日の午後に病院へ行くと、妻が怒っていた。

「何で帰えっちゃつたの?」

「エエ〜、看護婦さんが帰っても良いて言うから?」

「私が痛い思いをして生んだのに。冷たいね」

と言われ、

「カカ・・看護婦さんが・・・・」(仕方なく謝りました)



子供が2人になり、お金も掛かるから「どうしようかな?」と悩んでいた時、

プロダクションから、

「深夜、もう一店行けるか?」

と言われ、

「はい、何処にでも行きます」

と同じ銀座5丁目にある、丸源52ビルの「華の木」と言うパブへ行った。

(ここはオーデション無し)

その店の店長は背が高く、(180僉縫好織ぅ襪盍蕕睥匹ぁ

だが、「ホモ」だった。

お客様は、銀座のホステスさんやクラブの帰りに寄る常連さんでした。

時々店長に誘われ、新宿2丁目へ行った。(オカマバーが多い所)

我々が行くショーパブとは違い、普通のスナックへ、

そして、彼は雑誌をみて言う、

「先生、この子可愛いでしょう」

見ると、フンドシ姿で刺青をしていて、腹の出た男が写っていた。

何と言って良いのか分からないので、

「ソソソ・・そうですね〜〜」

と答えた。

それからは、店長に誘われても行かなくなりました。



仕事時間は深夜12時から3時まで、

帰りはタクシー、毎晩5千円。(もったいない)

そこで、田舎から持って来たスクーターに乗って行く事にした。

行きは夕方6時に家を出るから車が多く、東京の運転に慣れない頃はとても怖いと思った。

田舎では殆ど一本道だから、車線変更し右折するのも簡単だったが、

東京は3車線も行かないと曲がる事が出来ないのです。

(失敗して真っ直ぐ行った事もあった)

帰りは、酔っ払い運転。(これは危険だから、真剣に運転した)

運転に慣れて、1年ぐらいした頃だった。

その日は休みで、

妻に、

「店で、パーティーが入っているから」

と嘘を付き、女の子とデートするために出掛けた。

(仕事ということで、仕方なくバイクに乗って行った)

山手線の恵比寿の駅前にバイクを置いて、彼女と会い、帰りは朝の3時頃になってしまった。

その夜は、大雨のためタクシーに乗り、

「学芸大学」

と言った。

恵比寿の駅前に来た時、駐輪場を見ると私のバイクが“ポツン”と淋しそうに置いてあった。

(カッパも入っているから乗って行こうか?)と思い、

「すみません。恵比寿の駅で降ろして下さい」(バイクで帰れば、妻にバレ無い?)

カッパを着てヘルメットを被り、バイクに乗って雨の中を走った。

いつも走っている道ですから、

(このスピードで行けば、信号は青のまま)

と思って、環状7号線の近くまで行ったのは覚えている。

目が覚めたら救急車の中、

「お名前は?」

「電話番号は?」

と質問している。(どうして救急車に乗っているの?)

解からないまま、名前と電話番号を救急隊員に告げた。

「酒臭いな」

と言う声が聞こえたので、

「ヤバイ」

と思い、寝たふりをして黙っていた。

「何があったのだろう」

と考えているうちに、救急車は病院へ着いた。

寝てしまったのだろうか、気が付くと、妻と長男と叔父さんが病室に居た。

気持ちが悪くなり吐いたら、真っ赤な血が出た。

それを見て、妻が泣き出した。

私も、

「終わりかな」

と思ったら、叔父さんが、

「鼻血を飲んだだけだ」

と言ったので安心した。(この叔父さんが居て良かった〜)

午後には、父と兄まで来ていた。(早いな〜こんなに早く伊那から着いたのか?)

先生が、

「この病院では、ここまでしか治療が出来ませんから、大学病院へ行って頂きます」

とまた、救急車に乗せられて昭和医大へ行った。

昭和医大の先生が、

「目が見えていませんから、手術をします」

と言った。

右目の視神経が切れて、見えなくなってしまったのです。

手術は鼻と目の間を切り、神経がたくさん通っている周りの骨を削った。

しかし、目は見えなかった。

病室は、年寄りが多かった。(白内障)

片目は見えないが、元気な私はタバコを吸いに外にも出ていた。

一番辛いのが、夜9時には消灯。(楽しくない)

お腹も空くから、音のしない食べ物を食べていた。

(静かな所で“せんべい”を食べたら、あまりのうるささで驚いた事があった)

1週間入院して、検査の日、

「見える様には、ならないのでしょうか」

と聞くと

「今は無理だが、数十年したら見える様になる可能性はある」

と言ってくれた。(そんなに生きられないよね?)

そして、

「目の筋肉を使わないから、目玉がだんだん外を向いてくる。それを直すには、こうしなさい」

と、人差し指を鼻に近づけると両方の目玉が真ん中に寄った。(子供じゃ無いのですから?)

「これが目玉の運動だ」

と言われたが、目が痛くなり止めた。

友達から、

「お前は身体障害者なのだから、区役所に行って申請したら、お金がもらえるぞ」

と言われたので、区役所へ行った。

「あの〜、身体障害者の申請に来たのですが」

「はい、こちらに来て下さい」

と別室へ連れて行かれ、目の検査をした。

「た、へ、き、あ」

と読んで終わった。

そして、係の人から、

「貴方の視力は1.5ですから、障害者には入りません」

「目が見えなくても障害者じゃないの?」

「はい、片目が0.07以下でしたら障害者と認められます」

(何だヨ〜先に言えよ〜、だったら読まなかったヨ〜)

と、障害者は大失敗となりました。

「片目で仕事が出来るかな?」

と思い、お店に行ったら、

「大丈夫か?」

と、皆さんから心配して頂いた。

「働いても良いですか?」

「もちろん」

と、また戻る事が出来ました。

それからは、タクシーで帰る様になった。

「1日5千円のタクシー代は高い」

そんな事情を話していたら、車で来ているホステスさんが、

「私が送ってあげる」

と言い、時々家まで送って頂いた。(これが失敗の原因)

その内仲良くなり、毎晩迎えに来るようになった。

その彼女のマンションは西葛西で、私の家は学芸大学。

東京の西と東、正反対の方向、だから家に帰らない日も多くなった。

そうなると、妻には分かる。(当たり前)

「どうして帰って来ないの」

「タクシー代が高いから、友達の家に泊めてもらっているんだ」

そんな嘘は、直ぐにバレテしまう。

ある日家に帰ると、数枚の写真を目の前に出された。

「何だ、これ?」

「見れば分かるでしょう」(後ろ姿だったが、誰が見ても私だった)

「じゃ〜これは」

と次に出てきたのは、おもいきり顔が出ていた。(黙ってしまった)

「どうしたんだ、コレ?」

「内緒」

と言っても、探偵以外はこんな写真は写せない。

「お前、探偵使ったな〜。そんなお金、良くあったな〜」

と怒った。(と言うより、全部バレタので、怒るしか無かった)

「アンタ、探偵と一緒にエレベーター乗ったでしょう」

と言われ、考えてみたら、

夜中エレベーターに乗ったら、男の人が来たので手招きして呼んだ、

そして、

「何階ですか」

と笑顔で言うと、

「10階、お願いします」

と言われ、

ボタンを押し先に降りた私は、

「おやみなさい」

とまでも、言ってしまった。

「どうするの?」

「もちろん、あの女とは別れるよ」

と言ったが、今度は彼女に帰してもらえず、時々泊まっていた。

ある日ドアのベルが鳴った。

「誰だ?」

「新聞屋じゃない」

と彼女が見に行ったら、急いで戻って来て、

「奥さんが外に立っているよ」

「エエ〜〜」

逃げようと思ったが、マンションの6階からは、飛び降りる事はできない。

「静かにしていろ」

15分程ベルが鳴っていたが、静かになり帰った様だった。

その日の夜、家に帰ったら、

「何処へ行っていたの?」

「友達の所」

と、ごまかしたら何も言わなかった。(コレが怖い)

それから数日後の金曜日。(土曜日の朝)

彼女には内緒で、仲間と海に行く約束をしていた。

仕事が終わり、待ち合わせ場所に行ったら、仲間と女の子が数人いた。

「どうしたの?、この子達?」

「彼女達は学生さん、俺が誘ったんだ。女の子と一緒に行った方が楽しいだろう」(確かに)

目的地は千葉の海、(何処だか忘れた?)車を走らせ到着したら夜が明けていた。

夜明けの海は、最高に綺麗でした。

予約していた民宿へ荷物を置き、朝食を食べ海へ行った。

海で少し寝て、12時頃から酒盛り。

泳いだり飲んだり焼いたりしているうちに、1人の女の子と仲良くなった。

夕食は海の幸、

「美味しい〜〜」

宴会も終わり、みんな酔っ払っていたので、その彼女を誘い夜の海に行った。(ロマンチック)

女の子をクドクには、夜の海は最高です。

日曜日の夕方東京へ戻った私は、近所に住む友人の家に寄りお土産を届けた。

「おい。お前の家、大変だぞ」

「何があったの?」

「俺の女房がお前の家へ行ったら、お前の彼女が来ていて、奥さんと真剣な話を

していたそうだ」

「エエ〜、どうして〜〜?」(内緒で行ったからか?)

「知らないよ〜」(これは、ヤバイ)

と、その日は帰らなかった。

翌日家に帰ったが、彼女は居なくて、妻も何も言わなかった。

そして彼女に会っても、何も言わなかった。(こいつら、組んでいるな?)

数日後、彼女と会った時に別れ話が出た。(彼女から言ってきたので助かった)

家に行った話もした。(女房と、出前取って一緒に食べたんだって?)

そんな事で、彼女とは別れました。

その後葛飾区に、ローンでマンションを買いました。

(NAOKI 30歳でした)



NAOKI物語 (5) フィリピンとの出会い


葛飾区東四つ木にある、「ダイワパレス」と言う名のマンションへ引っ越した。

場所は、JR新小岩駅と京成立石駅の間で、下町に住んだのは初めてでした。
 
初めてマンションに行ったときは驚いた。

25階建ての23階、ベランダへ出たら足がスクミました。

妻に、

「子供は、ベランダへ行かすな」

と注意しましたが、慣れというのは恐ろしい。

数ヶ月もしたら、子供がベランダに居ても驚く事も無くなった。

1年程して、何時もお店に来てくれるお客様に、

「独立しないか?」

と言われた。

「先立つものがありませんから」

と言うと、

「俺が出してやるから」

との事で、ローンが残っているマンションを担保に、その方からお金を借りる事にした。

その話を妻にしたら“大反対”、

「せっかく買ったマンションなのに、店がツブレたら取られてしまうでしょ」(確かに)

しかし、“私も男だ一旗上げないと”と思い、妻の反対を押し切りお店を開いた。



そのお店は、銀座7丁目丸源14ビル。

電通通りにある。(今は、外堀通り)

8丁目のヤナセの隣。

古いビルで、15坪しか無かったが、家賃は70万円と他より安かった。(さすが銀座だ。高い)

そこの五階に、「PBジャック」と言う名のパブを開いた。

(片目しか見えなかったので、パブ・ブラックジャックと言う意味だった)

女の子を5〜6人置いて、ジュークボックスみたいなカラオケの機械も置き、

お客様が歌える様にした。

(第一興商のカラオケが流行り、弾き語りの仕事が無くなって来た頃だった)

当時の銀座は、バブルの影響もあり人で溢れていた。

深夜タクシーが拾えない為に、私の店に流れて来て頂いた。

そんな中、私にお金を貸してくれた社長が、

「日本橋の蛎殻町に小料理屋があって、そこもやってくれないか?」

と、言うので見に行った。

証券会社が沢山並ぶ、ビルの脇道を入った所にあった。(昔の“下町”と言う、感じだった)

これも、15坪位のお店でした。

「お前にしか、出来るヤツが居ない」

とオダテラレ、引き受けてしまった。(オダテに弱い)

この店が大変だった。

以前から、お昼にトンカツを出していてそれがウケテいたから、フライ中心に定食を続けた。

(もちろん、料理は板前さん)

この地区は証券会社が多く、11時半にはお客様が入って来ます。

板前さん2人、オバサン2人、そして私の5人だけ、だからお昼は戦争状態でした。

(時々、妻も手伝いに来ていた。仲良くなって来た?)

問題は私の身体、

朝8時に起き10時までに蛎殻町のお店へ行き、2時から少し休息して、

夕方は小料理屋として開店。(高級な刺身や海鮮料理を出していました)

夜10時に店を閉めて銀座へ向かう。

それから2時〜3時までお客様と飲んで、店を閉めて家に着くのは4時頃。

そして8時には起きていた。(もう死にそうでした)

この地区は、土日が休み。(だから、5日間頑張れば2日休めます)

土曜日はゆっくり寝ていて、日曜日は子供を連れてあっちこっちに行かされました。

(浅草やディズニーランド、そして葛飾柴又フーテンの寅さんなど。それからサッカーの試合、

荒川で自転車乗りも教えた)

近くに、ボクシング世界チャンピオン「内藤大助」の宮田ジムもあった。(良いお父さんでした)

それが?

当時私の友人に、

「フィリピンパブがおもしろいから、行こうよ」

と誘われましたが、

「僕は、フィリピン人が嫌いです」

と断っていた。(この頃は、フィリピンに住むとは夢にも思いませんでした)

たまたま2時頃お客様が切れ、その友人に、

「ヒマだろう、行こうよ〜」

と誘われ、仕方なく出掛けた。

行った先は錦糸町。(彼の家にも、私の家にも、近い所だった)

店に入ったら若い女性が、

「いらっしゃいませ〜〜」

と迎えてくれた。

彼は常連の様で名前を呼ばれ、

「いつもの子で宜しいですか?」

などと言われた。

「お前はどの子がイイ?」

と、言われても嫌いだから、

「誰でもイイよ」

と言うと、黒い土人が来た。(当時私は、フィリピン人は槍を持った土人だと思っていたが、

サルとは思っていませんでした?)

酒を飲み歌を唄って、4時まで居ました。

(これが、初めてフィリピン人と会った時の事でした)

朝4時まで開いていて、家の帰り道という良さもあり、時々行く様になった。

1年位してから友達が、

「フィリピンへ行こう」

と言い出した。

「冗談じゃない。フィリピンパブだけで十分だ」

と言うと、

彼が指名していた彼女が、

「フィリピンに帰る」

と言うので、

マニラで会う約束をした、と言うから驚いた。

「バ〜カ、止めろ」

と言ったが、

彼は夢中だったから、私の言う事は聞かない。

「飛行機代だけ出してくれたら、ホテルから飯まで全部出すから一緒に行ってくれよ〜」

(そこまでハマッタか?)

と思いながら、

「分かったよ」

と、行く事になった。

1ヶ月後、彼女のさよならパーティーがあって、私も行かされた。

山口百恵の、「さよならの向こう側」を歌い泣いていた。

見ると、彼の目にも涙がキラリ。(バ〜カ、泣いて居るんじゃないよ)

そして彼は、彼女がフィリピンへ帰るので送って行き、

荷物が多すぎて、オーバーチャージを払ったそうです。

(彼は私に“こんな事をしてはいけない”という見本を見せ、教えてくれたのです)

数日後、成田空港からマニラへ飛んだ。

飛行機を降りると、空港は変な臭いがしていた。(ココナツオイルのかな?)

荷物を受け取り外へ出たら、鉄格子の外から沢山の人が手を出している光景が見えた。

「何だ、ここは?」(刑務所?)

空港に迎えに来たフィリピン人が、手を振って声を出し、

出てくる知り合いを呼んでいたのです。

「彼女は、迎えに来ているの?」

「この辺に居るはずなんだけど?」

うろうろしていたら、

「○○○さ〜ん」

と声がした。

「あっちに居る」

安心して、我々は外に出た。

彼女は、従姉と一緒に来ていた。

「タクシーを待たしているから」

と言うので付いて行ったら、私の前に花の首飾りを差し出す子供が居た。

(ハワイの空港でも、貰った事がある)

それを首に掛けて頂き、

「サンキュー」

と言ったら手が出た。(何だ?)

「マネー」。(何んだぁ。金か?)

「ハウマッチ」

と聞くと、

「500エン」

と言われた。(円か?)

小銭入れから百円玉を、

「1枚、2枚、3枚」

と数えていたら、

私の周りに子供が沢山集まり、手を出していた。(何だ、ここは〜〜?)

首飾りを外し、皆が居る所へ走った。

「ヒドイ所だよ、ここは」

と言ってタクシーに着くと、トランクの前に居た男に荷物を渡したら、

「1000円」

と言われた。

「何コイツ?」

「いいから、タクシーに乗ろう」

と、トランクを閉めてタクシーに乗った。

空港からロハスブルーバードを走り、ホテルに着いた。

タクシーを降り荷物を取ったら、

運転手が、

「1万円です」

と言った。(“もう最悪、二度とこんな国へ来るか〜〜〜”と思った)



私は、ホテルの部屋で少し休んだ。

夕方、

「食事に行こう」

と起こされた。

「何処に行くの?」

「シーフードだって、彼女の家族も来て居るんだ」

「エエ〜、家族と一緒なの?」

タクシーでシーフードレストランへ着いたら、彼女の家族がジープニーに乗って待っていた。

(何人居るんだ?)

全部で十数人。(こんなに家族が居るの?、良く聞く話です)

言葉が通じないので、黙って食事を終え、家族を帰し、ホテルに戻った。

「彼女は今晩、一緒に居るんだろ?」

と聞くと、

「何だか、従姉も一緒に泊まるそうだ」

「何だヨ〜、話が違うんじゃない?」

「俺も、彼女だけだと思っていたよ」

との事で、その日はホテルのバーで飲んで寝ました。
 
この旅行は、4泊5日で、初め2泊がマニラ、それからブエルタースールでゴルフをして1泊、

翌日もゴルフをしてマニラに戻り、1泊して日本へ帰る予定でした。

翌朝、彼達は彼女の家に行くとの事で、私も一緒について行く予定だった。

しかし、錦糸町で知り合ったフィリピンパブの女の子から、

「もし、マニラへ来たら電話して」

と言われていた電話番号があったので、朝、暇つぶしに電話をしたら連絡が取れ、

「今から行く」

と言うので、彼達とは別行動になった。

朝10時頃、部屋に電話が入り、

「下に来ているから」

と言うので、降りて行ったら彼女が居た。

「オ〜、元気だったか〜」

と立ち話。

「マニラは初めて?」

「うん、右も左も分からないよ」

「じゃ〜私が案内してあげる」

と言われ、タクシーで近場を回った。

そして、

「私の家に来る」

と言われ、

「いいけど手ぶらじゃ行けないよ、何か買って上げるよ」

「じゃ〜、マーケットへ寄っていい」

「OK」

と連れて行かれた所が市場だった。(あれ、スパーマーケットじゃないの?)

歩いていたら黒い固まりがあった。

「何だ、これ?」

と思った、オバサンがハタキでハタイたらハエが逃げて、中から豚肉が出て来ました。

(エエ〜豚肉だ〜)

その豚肉や鶏肉を買い、タクシーに乗って着いた所が、

ロハス通りにある大きなマンションだった。

「何だ、ここは?」

「私が今住んで居るマンション」

「エエ〜、マンションに住んで居るの?」(お金持ちジャン)

そんな訳が無い。(誰か、お金持ちの二号だったのかも知れない)

マンションの11階でエレベーターを降り、部屋に入ったら広い。

目の前はマニラ湾で、景色も最高だった。

「家族は?」

「田舎に居るの」。(何だ、家族と一緒に住んで居ると思った)

彼女が料理を造り、一緒に食べた。

「明日、ブエルタースールって言う所に行くのだけれど遠いの?」

「エエ〜いいな〜私も連れて行ってよ」

と言う事で、一緒に行く事になった。

「泊まっていきなヨ」

と言われたので友達に連絡してもらい、

「明日の朝、ホテルに戻る」

と伝え、この日は彼女と一緒にそのマンションに泊まった。

そして、朝起きたら彼女が居ない。

「あれ、何処へ行ったんだ?」

10分ぐらいしてジョギング姿で帰ってきた。

「ごめんなさい。走ってきたから」

「何処を?」

「あそこ」

と指を差した。

ロハス通りの向こう側に、ビルがあり、緑の綺麗な場所だった。

(フィリピン人が、朝からジョギング?)

朝食を食べ、ホテルへ行ったらジープニーが用意されていた。

そして、5人でブエルタースールへ行った。(相変わらず、友達の彼女は従姉と一緒だった)

3〜4時間掛かったのかな?。

とても綺麗な所で、ゴルフ場のフェアーウェイも狭く難しいが、最高のゴルフ場だった。

(当時私は、ビギナー)

他にも、プールやボウリング場もあり、素晴らしい所でした。

そして、午後マニラへ戻った。

翌日、彼女に空港まで送って貰い、

「日本へ来たら連絡ちょうだい」

とお別れをした。(この彼女とは連絡も取れなくなり、二度と会う事は無かった)


 私は、楽しいマニラ旅行になりましたが、彼は最悪の旅でした。


ある日銀座のお店に、白人の女性2人を連れて来たお客様がいた。(白人だ〜)

1人はイギリス人、もう1人はオーストラリア人。

彼女達は、銀座のクラブでアルバイトをしていた。

その後金曜日になると、その白人の二人が仕事帰りに飲みに来る様になった。

イギリス人の子は、夕方から日本の企業や銀行等に英語を教えに行っていた。

ある日、

「NAOKI。私に、日本語を教えてくれる?」

と言われ、(私も彼女に、英語を教えて貰おうと思い)

「OK」

と答えた。

最初の頃は、土曜日がお互いに休みなので喫茶店で会い、

彼女が話す、日本語を直していた。

その内に、

「私、日本食が好きなの」

と言われ、居酒屋に飲みに行く様になり、友達も呼び酔っ払って大騒ぎをしていた。

ある日、

「家においでよ」

と言われ、「どんな所に住んでいるんだろう?と、興味があったので」行った。

場所は、深川駅を降り10分ぐらい歩いた所にあり、外人だけが住んでいた。

古いアパートの2階建で、10部屋ぐらいありました。

部屋は畳の8畳間、押し入れも付いておりトイレは共同の、昔ながらのアパートでした。

彼女は、同じイギリス人の女性と住んで居た。

この子、身体はデブだがおもしろい子で、日本人のモノマネや冗談の連発。

大笑いさせてくれました。(外人は冗談が上手い)

彼女達の荷物は少なく、布団もせんべい。

「布団で寝ているの?」

「うん、ちょっとクッションが悪いけど?」

外人に、畳と布団は似合わない。

缶ビールを飲み話していたら、

「もう遅いから、泊まって行きなよ」

時計を見たら12時を過ぎていた。(もう電車が無い時間だ?)

「タクシーで帰るから」

と言っても、

「いいから」

と、止められた。

「何処に寝るの?」

「私と一緒に寝ればイイじゃない」(エエ〜、一緒に寝る〜)

と言っても、隣にはデブの友達が寝ているから何も出来ない。

酔っ払て、3人で寝た。

2時間ぐらいして起こされ、目が覚めたら彼女が裸で私にくっ付いて来た。

「ヤバイよ〜友達が起きたらどうするの?」

「大丈夫、彼女は起きないから」

(そうは行かない。1メーター隣に人が寝て居るのだから、気が気じゃない)

「静かに、静かに」

と朝になった。(???)



それから毎週土曜日はデート、居酒屋や安い寿司屋へも連れて行った。

半年ぐらいしたら、彼女は四谷3丁目に引っ越した。

今度は、初めに会ったオーストラリア人と一緒に住んだ。

部屋は2つ、

「今度は、何時でも来られるでしょう?」

と言われたが、ダンダン面倒くさくなって来ていた。(白人は臭い)

週1が、

「忙しいから」

と月1になって来た頃、

「親が心配しているので、一度イギリスへ帰ります」

「エエ〜そうなの?」(ラッキーじゃん)

箱崎のターミナルまで送って行ったら、

「離れたくない」

と泣かれてしまった。(ヤバイじゃん)

そして時間になり、涙を拭きながら階段を上がって行った。

(友達に、「白人を泣かせたのは、お前ぐらいだ」と言われた)



 “バブルが弾けた〜”



と言っても、何の問題も無いと思っていた。



しかし、



月末になり、何時もの様に数社から入金が無いので、

「おかしいな?」

と思い電話したが出ないので、数日後ある会社へ行ったらドアが閉まっていた。

「おかしいな?」

と思い、ビルの管理人さんに尋ねた。

「あの〜、5階の○○商事のドアが閉まっているんですが、何かありましたか?」

「あ〜ぁ、あそこは先月引っ越したよ」(エエ〜何の連絡も無かった)

「何処へ行ったか分かりますか?」

「さあね〜」

「社長さんの自宅は?」

と聞いたが、冷たく知らん顔された。(困ったな〜)

バブルの頃、私の店には有限会社の社長さんが多く金振りも良かった。

そんなお客様は、人の紹介もあったが飛び込みで来るお客様も居た。

(銀座と言う所は殆どが“ツケ”で、20日前後に請求書を出し、月末に振り込んで頂く)

最初の頃は、現金かカードで支払って頂いたが、会社が分かり長く付き合っていると、

「めんどうくさいから、ツケで良いか?」

と言われ、

「もちろん。社長でしたら」

と、“ヨイショ”もした。

当時は、儲かっている会社が多く、ゴルフ等にも連れて行って頂いた。

そして、バブルが弾けて支払いを、

「もうチョット待ってくれ」

と言う、社長さんも出て来た。

また、大手の会社では、

「接待費が使えなくなったので、もう少し待ってくれ」

と言われ、高いクラブに払うお金が先になり、私の様な小さな店は後回しになっていた。

そうなるとお客様の足も遠のき、店はヒマになって、女の子にも辞めて貰い、

ダンダン悪い方に向かったのでした。

「このまま行ったら“ヤバイ”」

と思い、お金を出して頂いた社長に相談した。

この社長さんも、株やゴルフの会員券と、銀行の借金で困っていた。

(当時は、ゴルフ会員券のお金も銀行で貸してくれました)

話し合いの結果、店を閉める事に決めました。



悪い事は続くものだ。

その頃、仕事を終え酔っ払い3時過ぎに家に帰り、寝ようとした時に電話が鳴った。

「オイ、電話だ」

「アンタ出なよ」

酔っ払って眠いので、

「いいからお前出ろよ」

と伝え寝たら、

「あなた大変よ。お父さんが倒れて入院したって」

「エエ〜、直ぐ支度をしろ」

と子供達を起こして着替えさせ、妻の運転で長野へ向かった。

朝早かったので都心が空いていたから、10時頃に伊那へ到着した。

(私が子供の頃、兄と一緒にテレビを見に行った病院でした)

病院へ入ると兄と姉が居て、

「良かった〜間に合って」

「どうなるの?」

「脳死しているけど、まだ息があるから」

緊急治療室の中に入ると、心電図が動き酸素マスクをして、眠った状態だった。

私が声を掛けると子供達も、

「お爺さん」

と呼んだ。(お爺ちゃんは優しく、子供達は大好きだった)

すると、父の目から涙が1粒流れた。

「あれ、聞こえているよ」

と、私と子供達が大きな声で叫んだ。

すると姉が、

「他の人も居るんだから、大きな声を出したら迷惑でしょう」

「冗談じゃない、大きな声を出して呼びかけたら生き返った人も居るんだ」

と呼び続けたが、何の反応も無かった。

医者に呼ばれ話を聞いたら、

「やる事はやりましたが、もう無理です。あと何時間生きられるか?」

と言われ、

「冗談じゃない、貴方は医者だろう、何とかしろよ」

と乱暴な言葉を吐いたら、姉に止められた。

しかし、悔しくてたまらなかった。

「お昼だから食事に行ってこよう」

と言われ、戻ったのが1時半頃だった。

少ししたら、看護婦さんが走って行った。

「どうしたの?」

「心臓が止まったらしい」

それを聞いて病室に入り、大きな声で父を呼んだ。

電気ショックを数回したが、心電図は動かなかった。



「どうやって運ぶの?」

「車で家に連れて行こう」

(エエ〜、葬儀屋さんが来るんじゃないの?)

と思ったら、

「早く家に連れて行ってあげようよ」(そうだ、家で寝かせてあげよう)

私が先に車の後ろに乗り頭を持ち、父を抱いた。

兄が後から乗り、足の方を持って家まで運んだ。(まだ身体は暖かかった)

家に着くと布団を敷き、頭を北に向け寝かせた。

葬儀屋が来るのは早かった。(さすが商売)

白い着物を着せ、化粧をし、頭に三角の頭巾を着け、足にはワラジを履かせた。

(田舎のやり方かな?)

三途の川を渡るのに必要だそうだ。

その3日後、葬儀の会場へ行くのに霊柩車が来た。

棺桶を運び、霊柩車に乗せ出発した。

近所の叔父さんが、

「スゴイな〜、犬が手を合わせていた」

と言った。(たぶんチンチンしたら、手が合ったのでしょう?)

この犬は、私が東京で飼っていたが、

マンションの大家に見つかり、田舎に置いて来たマルチーズで、名前は“ヨタロー”。

父が予防注射に行った時、お医者さんに、

「お名前は?」

と聞かれ、

「ヨタロー」

と言うと、皆に笑われたそうだ。

(名前なんか関係ないのだから、もっとカッコイイ名前を言えば良かったのに?)

父が毎日散歩に連れて行っていましたから、父が亡くなって1ヶ月もしないうちに、

後を追うように死んで行った。(田舎では外で飼っていたのに、14年間も生きました)

沢山の方に集まって頂き、父の葬儀が終わりました。



初7日まで居て、東京へ戻った。

数日して妻と子供達に、

「借金取りが来る虞があるから、離婚する」

と言うと、

「貴方の借金なんか背負いたくない」

と妻は賛成した。(簡単に賛成するな)



妻と離婚し、

借金の形にマンションを渡し、何とか「0」にして頂いた。

貯金は妻に渡し、

少しのお金で、

「何か、違う事をしよう」

と思った。


  

(NAOKI 34歳でした)



















NAOKI物語 (6) フィリピンで仕事を始める


店を閉め、

妻や家族と分かれ、

一からやり直しになった私は、

フィリピンへ一緒に行った友人に、

「一緒にフィリピンパブをやろうか?」

と誘われた。(懲りないヨネ〜)

何もしなければお金も無くなるので、店長として働く事になった。

(この時点でも、フィリピンに住むとは思ってもいなかった)

と言っても、数ヶ月働いたが楽しくないから辞めた。

その後、知り合いの社長の会社へ遊びに行った。

「社長、お金を貸していただけますか?」

「何に使うんだ」

「貿易をしたいと思います」

「何の」

「それはナイショです」

「ナイショは無いだろう」

金額が少なかったので、何とか貸して頂いた。

「ヨ〜シやるか」

と色々と考えた。

そして、友人の紹介で知り合った若い男を雇った。

「マニラへ行くぞ」

と、その男を連れてマニラへ行きました。

何故ならば、

私がフィリピンパブで働いていた時の女の子が、

「マニラにある、○○○○店の洋服が着たい」

とか、

「フィリピンの○○○が食べたい」

と言う話を、聞いていたからだ。

「その洋服は、フィリピンでは5千円で買え、日本へ持って来たら2万円で売れる」

と言われた。

しかし、話だけでは分からないから“まずは、マニラへ行こう”と決めたのです。

行く前に、東京にあるフィリピンパブの女の子が住むアパートを探し当て、注文を取った。

洋服、食べ物、そしてマリア像まで頼まれた。

その注文書を持ち、一番安いパキスタン航空のチケットを買い、成田からマニラへ着いた。

(パキスタン航空の飛行機は臭い)

ホテルは知り合いに聞いた、マビニ通りの近くにある安ホテル。

空港へは、夜の8時頃到着したので、マビニ通りに着いたのは9時〜10時。

ビキニバーが並ぶ通りは人が多く、1軒ずつ店を覗いた。(目的は洋服なのに??)

朝起きてデパートへ行き、洋服を選んだ。

30〜40着を買い、バクラランへ行った。(ここにもハデな衣装が売っていた)

それから、ホテルに戻り荷物をまとめ、夜はマビニで遊び、翌日の飛行機で日本へ戻った。

(2泊3日)



日本では、洋服を売りにフィリピン人の住むアパートを回った。

高いのは直ぐに売れたが、バクラランの安いハデな衣装は売れ残った。

2万円を現金で持っている子は少なく、ツケが多かった。

だから、毎週月曜日に集金に行かないとお金を使われてしまう。

数ヶ月間、日本とフィリピンを行ったり来たりしていた。

最初は順調に売れていたが、同じ店では限りがある。

そして、逃げた子も数人居た。

「何か方法は?」

と考えている頃に、銀座で店を開いた時にお金を貸して頂いた社長から連絡があった。

「何して居るんだ?」

「まあ〜何とか」

と、ごまかした。

「私の友人に会って話を聞いてくれるか。お前にはピッタリの仕事だと思うんだけど」

と言われ、次の日の午後に事務所へ行きました。

すると、背広を着た紳士が居た。

社長に、

「NAOKI、彼だよ」

と言われ、挨拶をしてソファーに座った。

この方はハワイに住んでいて、不動産関係や旅行関係の仕事をしていた。

社長が私の事を気にして、彼に何か仕事を探す様にお願いしていたのでした。

そして、

「君、ハワイへ来ないか?」

と言われた。

「ハワイですか?」(いきなりハワイか〜?、でもおもしろそうだな?)

「君にやって欲しい仕事があるんだ」

何だか気持ちがハワイに向いていた。(どうせ独身だ、何処へでも行ける)

「給料は約40万円だが」

(40万円か〜?はい、行きま〜す)

と言いたかったが、簡単に返事をしたら安く見られる。

「40万円ですか?ハワイね〜?」

すると社長が、

「もう少し出せないのか?」

と言ってくれた。

「ん〜そうですね。物価も高いですから50万円ではいかがですか?」

(50万円〜〜、行く、行く、今直ぐ行きま〜〜す)

と言いたかったが、

「すみません、1日考えさせて下さい」(バカヤロ〜考えるな〜。今直ぐ返事だ〜〜)

「分かりました、では明日と言う事で」

と話が終わり、

「食事でも行こうか」

と社長と一緒に、人形町の小料理屋へ行った。

酒を飲むと人が変わる社長なので、

「速く逃げよう」

と思っていたが、簡単には逃げられない。

その内に変わってきた。

「おいNAOKI、お前はどうしてハッキリしないんだ」(あ〜ぁ、もう帰れない)

「すみません」

と長々と説教が始まった。

こうなると止まらないので、

「分かりました。行かせて頂きます」

と返事をしました。

するとキゲンが良くなり、朝の2時までお付き合い致しました。(飲むと長い、私は酔えない)



私は、フィリピン人に売る洋服を若い彼に上げて、

荷物等を整理し、ハワイへ行く準備をしていた。

1週間後に、ハワイから電話があった。

「いつ出発ですか?」

と聞くと、

「ちょっと他の仕事入ったので、もう少し待ってほしいんだ」

「分かりました」

頭の中は、ハワイでいっぱいだった。

そして、2日後また電話が入り、

「今回は、他の方から頼まれた仕事があり、そちらへ行って貰いたいんだが」

「はい、どちらですか?」

「セブ島だよ、フィリピンの〜」

「あ、はい、でで・・でもどうして?」

話を聞いたら、

群馬県でフィリピンパブを4〜5軒やっているオーナーが、セブでお店を開くという。

目的は、

日本から戻ったタレントが、次のリクエストが入るまで働かせる事と、

新しいタレントを育て日本へ送る為でした。

「セブですか?」

「どうかね、それを立ち上げたらハワイに来ていただく。英語の勉強にもなるから」

と言われ、(フィリピンなら知っている。どうせ独身だ、何処へでも行くさ)

「分かりました」

と答えた。

彼に、

「私のビジネスパートナーのスペイン人が旅行会社をやっているから、そこへ行ってくれ」

と言われました。

(この会社は日本人もお金を出し、スペイン人と組んで、クルザーやジェットスキーそして

ダイビングもやっていた)

飛行機はJAL、(パキスタン航空とは大違い)

そしてマニラに着いた。

それから国内線乗り場までタクシーで行き、夕方の便でセブへ着いたら7時頃だった。

空港に降りたら、タラップが付けられ降りた。

見ると、真っ暗な中に小屋が見えた。(これ空港なの?)

人の流れに乗って中に入り荷物を待った。

トラックが到着し、台の上に荷物を投げられた。(この台は回らないの?)

皆が荷物を受け取りに群がっていた。

私も荷物を取り、

「タクシー」

と叫んでいる呼び込みの所に行き、

「セブ」

と言ってタクシーに乗った。

日本で聞いていた住所を伝え、ゴロルドにある旅行会社へ行った。

(当時の道はガタガタ道で、エアコンも無いタクシーだからホコリだらけになった)

旅行会社のビルに着くと電気が消えていて、

ガードマンに、

「ファン アンド サンは、ここですか?」

と聞くと、

「はい。でもクローズだから明日来て下さい」

と言われた。

マニラで知り合ったフィリピン人の友人に、(女性)

「セブへ行く」

と話したら、叔父さんを紹介され、

「困った事があったら、タリサイと言う所に私の家があるから、そこに行きなさい」

と言われていたので、ノートを開き住所を見て、

「タリサイへ行って」

と、タクシードライバーに告げた。

「タリサイですか?」

「遠いの?」

「少し」

と走り出した。



セブ市内のキャピタルからフェンテに向かう通りは、並木道で綺麗だった。

それからまた、ガタガタ道を走った。

「まだですか?」

「もう直ぐです」

と言われたが、道は悪いしホコリがスゴイので、気持ちが悪くなった。

その家に行く地図も書いてあったので直ぐに探せた。

ゲートがあり、外から、

「今晩は」

と言うとオバサンが出て来た。

「あの〜○○○さんの友達なのですが?」

「今、この家の者は誰も居ませんが」(メイドさんか?)

「いつ来ても良い、と言われていたので来ました?」

と言うと中に入れてくれた。

「ごめんなさい。今、日本から着いたのですが、会社が閉まっていて行く所が無く、

来てしまいました」

と説明したら、部屋を与えてくれ、

「お腹空いている?」

と聞くので、

「この近くに、何処か食べる所はありますか?」

と聞くと、食事を作ってくれた。(優しいメイドさんでした)

翌朝、朝食も頂き、荷物はその家に置きタクシーに乗って会社へ行った。

(タクシー代は50ペソぐらいだったかな?今乗れば200ペソぐらい?)
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